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大阪高等裁判所 平成4年(う)224号 判決

本籍

大阪市天王寺区空清町二番地の二

住居

同区細工谷二丁目八番一七号

工員

吉本武夫

昭和八年七月二三日生

右の者に対する所得税法違反被告事件について、平成三年一二月二四日大阪地方裁判所が言い渡した判決に対し、被告人から控訴の申立があったので、次のとおり判決する。

検察官 上野富司 出席

主文

本件控訴を棄却する。

理由

本件控訴の趣意は、弁護人西垣剛、桃井弘視共同作成名義の控訴趣意書記載のとおりであり、これに対する答弁は検察官山田廸弘作成名義の答弁書記載のとおりであるから、これらを引用する。

所論は、要するに、コスモ証券本店・上六支店の吉本弥生名義、同博則名義の各株式取引口座での昭和六一、六二年分の株式取引による所得は右両名に帰属すべきものであるのに、これら所得はすべて被告人に帰属すると認定した原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実誤認がある、というものである。

しかし、記録を調査し、当審における事実調べの結果を併せ検討しても、関係各証拠の信用性についての原判決の判断及びそれに基づく判示事実の認定は相当であり、認定の理由として補足的に説明するところも概ね是認することができる。

なお、所論にかんがみ、若干付言することとする。

一  弥生が株式取引に投入した資金及び同女の博則に対する株式の贈与について

所論は、コスモ証券本店・上六支店の弥生名義の取引口座での株式の取引は、すべて弥生の三次にわたる資金の投入を原資とするものであり、同店の博則名義の取引口座での株式の取引は、弥生が博則に贈与した株式(ないしその資金)によってなされたものであるとして、その間の経緯を縷々主張するが(以下、コスモ証券本店・上六支店における被告人名義、弥生名義、博則名義の株式取引口座を、それぞれ「被告人口座」「弥生口座」「博則口座」という。)、弥生の株式投資及び博則に対する株式贈与の点につき、原判決が「争点に対する判断」三及び六において説示するところは相当であり、関係証拠によれば、弥生が早くから株式取引に関心を持ち、被告人に依頼して山一証券梅田支店の被告人名義の取引口座で株式を購入したり、昭和四〇年代の前半ころから、自ら開設した大和証券本店の福岡眸名義の取引口座や野村証券上本町支店(当時は上六支店)の弥生名義の取引口座である程度株式取引をしていたこと、したがって、弥生がある程度のまとまった資金を株式取引に投入したことが認められるけれども、証拠上、それ以上に、同女が株式取引に投入した資金額を具体的に確定することはできない。

また、関係証拠によれば、博則名義の株式も多数存在はするが、博則の公判や捜査段階における供述等によれば、同人は株式に全く興味や関心がなく、自分名義の株式や預金が存在することを知ってはいたが、弥生から特定の銘柄、数量の株式を贈与すると言われたこともなく、昭和六三年秋ころ、税務署対策として、博則口座での株式取引は博則自身がしているように見せかけるために、被告人から、博則名義の株式の明細を記載したメモを渡され、内容を記憶するよう命じられるまで、どのような株式が博則口座で取引されているのかほとんど知らなかったもので、株式の名義を自分にしているのは、株式取引上の便宜にすぎないと認識していたと認められるのであって、被告人や弥生が、博則のために財産を残しておきたいという気持ちをもっていたことは、否定できないにしても、株式の名義を博則にしていたことは、同人への贈与の趣旨ではなく、株式取引上の便宜にすぎなかったと認めるのが相当である。

したがって、弥生口座及び博則口座における株式取引の原資には、ある程度弥生のものが含まれていたということはできる。

二  株式取引による所得の帰属について

所論は、株式取引による所得は、その取引の原資(信用取引の場合はその担保)を提供した者に帰属するというのであるが、株式取引による所得、すなわち、取引損益の帰属は、その株式取引が何人の取引と見られるかの問題であり、取引の実態から見て、何人が取引を実体的、手続的に管理、運用していたと認められるかによるべく、具体的には、売買する株式の銘柄、数量、価格等取引内容の決定、証券会社への売買の注文、連絡等取引の手続の執行、証券会社の売買報告書等の計算書類や株券預かり証等の管理、取引損益の処置、運用等の諸点を総合して認定すべきであって、取引の原資の提供も右の認定要素の一つに過ぎないというべきである。ただし、いわゆる一任勘定取引的なものとして例外的な扱いを受けることがありうることは、後記のとおりである。

三  弥生、博則各口座における取引の実態

(一)  そこで、弥生、博則各口座において株式取引がどのようになされていたかについてみると、関係証拠によれば、被告人は、被告人口座で株式取引を続ける一方、弥生、博則両口座も被告人自身が開設手続を行い、長年にわたる株式取引を通じて蓄積した知識経験を生かし、かつ、株式情報の収集に鋭意努力して、これらの口座(以下「三口座」という。)での株式取引をもっぱら一人で管理運用していたこと、すなわち、〈1〉被告人が証券会社に対する売買の注文、連絡等の手続をすべて行い、〈2〉売買する株式の銘柄、価格、数量等すべてにつき被告人が決定し、これらにつき弥生の意見や希望を聞くことはあっても、最終的には被告人が決定していたし、取引の結果取得した株式についても、被告人が随時売却し、〈3〉証券会社の売買報告書等の計算書類、取引の結果取得した株式の株券預かり証等はすべて被告人が管理し、弥生や博則に取引の内容を逐一報告せず、〈4〉証券会社側も、例えば、被告人から資金や株券の口座間移動の申出があった際に、弥生や博則の同意を全く問題とすることなくこれに応じるなど、三口座の取引を実質的には被告人の取引と考えて被告人だけを相手にして対応しており、昭和六三年に入り、株式の借名・仮名取引に対する監督官庁の指導が強化されるようになってから、被告人の株式取引方法を問題にしだしたことが認められる。

(二)  もっとも、家庭内において、複数の家族が株式取引の原資を提供する一方、その中の特定の者が、株式取引に関する知識経験を生かして、出資した者のために株式取引の一切の手続を行い、売買の銘柄、時機、数量、価格等の決定を一任されている場合は、それらの株式取引が明確な計算関係の下に分別管理されていれば、出資した家族各自の取引と認められ、売買の損益も各自に帰属すると認められることもありうる。

しかし、関係証拠によれば、本件では、株式購入の資金や信用取引の担保の不足を補うため、昭和六〇年から六二年の期間だけでも、三口座間に、原判示(「争点に対する判断」四)のように、多数回にわたって、資金の移動や信用取引の保証金代用証券としての株券の移動があり、また、被告人が昭和六一年八月に大阪証券金融株式会社から融資を受けた一億六〇〇万円の資金のうち、二二〇万円が弥生口座に、四五〇万円が博則口座にそれぞれ入金されて株式売買の資金となっており、また、三口座各別の売買損益について、計算関係を明確にしておらず、むしろ、もはや明確にできない状態になっていたことが認められる。

所論は、これら資金の口座間移動や融資金の配分は、当該口座名義人間の貸借であり、三口座間に資金の移動があっても一年以内に返済があれば家族間の貸借と認められるとの天王寺税務署の指導に従って行っていたものであると主張し、被告人も原審及び当審の公判において同旨の供述をしているが、被告人が税務署に尋ねたのは、贈与税がかかるかどうかについてであって、資金の口座間移動によって借名取引とみなされるかどうかということではなかったのに、被告人が自分勝手な解釈をしているにすぎず、また、被告人は右移動等につき弥生や博則の承諾を得ていたわけではなく、貸借としての清算なども行われていなかったことは、証拠上明らかであるから、これらを貸借と見ることは相当でない。

したがって、三口座における株式取引は、被告人によって、分別管理されずに、一体として運用されていたというべきである。

四  以上、本件における株式取引実態並びに三口座の運用状況等を総合すると、その株式取引の原資に一部弥生のものが含まれていたとしても、三口座の株式取引はすべて被告人の取引であり、結局、昭和六一年分及び六二年分の弥生口座及び博則口座における株式取引による所得もすべて被告人に帰属するというべきである。論旨は理由がない。

よって、刑事訴訟法三九六条により本件控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 青木暢茂 裁判官 梶田英雄 裁判官 寺田幸雄)

控訴趣意書

罪名 所得税法違反

被告人 吉本武夫

右被告人に対する頭書被告事件につき、平成三年一二月二四日、大阪地方裁判所が言い渡した判決に対し、弁護人から申し立てた控訴の理由は左記の通りである。

平成四年四月二八日

右被告人弁護人

弁護士 西垣剛

同 桃井弘視

大阪高等裁判所刑事第一部 御中

第一 控訴申立の趣旨

原判決は、

被告人は、株式取引による自己の所得税を免れるため、本名及び仮名(妻弥生、長男博則)による株取引による所得を秘匿し、

一、昭和六一年分の所得税一三六、〇二三、六〇〇円を

二、昭和六二年分の所得税四四五、九四〇、七〇〇円を

免れたものである、

との公訴事実(要旨)に対し、本名及び仮名(被告人の妻弥生、長男博則)口座での株式取引は、全て被告人自身に帰属する株式取引であるとして、被告人に有罪を言い渡した。

しかしながら、右吉本弥生、同博則名義での株取引は、右弥生、博則に帰属するものであったと認めるに足りる証拠は十分にあり、本件を有罪とした原判決は、証拠の価値判断、取捨選択を誤った結果、事実を誤認したもので、また、理由不備であり、これらの誤りは判決に影響を及ぼすことが明らかであるから、到底破棄を免れないものと思料する。

第二 控訴申立の理由

一、原判決が本件に対し有罪とした理由

原判決が本件を有罪とした理由の要旨は次の通りである。

即ち、原判決は、昭和六一年、六二年の二年間にわたる、被告人、妻弥生、長男博則の三名義の口座(コスモ証券本店)での株式取引に関し、被告人の

「二年間にわたる、弥生、博則の口座での株式取引は、その名義通り、弥生、博則に帰属するもので、被告人の取引ではない。即ち、弥生の口座での取引については、全て弥生が原資を出したものであり、また、博則の口座での取引は、弥生が同人に贈与した資金と株式が原資になっているので、各口座での取引はそれぞれ名義人に帰属する」

旨の弁解、供述を検討し、

1.弥生、博則口座の開設に当たり、弥生名義の「チッソ」株や「にっかつ」株及び博則名義の「大阪窯業耐火煉瓦」株が各口座に入庫されて取引が開始されていることについて

「右株式が弥生の資金により購入されたことや、それが弥生の所有する株式であることを認める客観的証拠はない。また、弥生から博則へ贈与の事実を認める客観的証拠はない。また、被告人が右両名の株券であっても、その名義を自在に変更していたことが明らかであるから、株券の名義のみでその帰属を決定することは出来ない」

とし、

2.三口座間での資金等の移動について

「被告人が三口座を一体として取引に使用していたこと、また、この点について三者間で計算関係を明確にした清算が行われていたと認める証拠がないから、家族間の貸借とみることは出来ない」

とし、

3.三口座間の管理について

「被告人は、弥生や博則の同意を得ずに三口座の取引を管理していたこと、弥生の依頼を受けて売買した株式も、それは弥生が売買を希望したという程度のもので、被告人の意見決定を拘束するものではない」

とし、

4.弥生が株取引に投入した資金について

「弥生が本件口座開設以前に、存在していた福岡眸(大和/大阪)、弥生本人(野村/上本町)の口座は、弥生自らが資金を出して開設し、株取引をしたことは認められる(捜査段階では、この口座も被告人のものであるとし、起訴されたもの)としながら、結局、弥生が株式に投入した資金の金額を具体的に確定するだけの証拠はないこと、また、弥生、博則口座での株式売買益は被告人の知識経験等によるもので、仮に弥生が三〇〇万円程度の資金を投入した事実があっても、その資金の持つ意味合いを重視出来ない」

とし、

5.被告人が、国税当局の査察の着手した当日は、三口座は名義人のものであると供述したが、翌日、三口座は全て被告人のものである旨の供述をした(以後一貫して否定している)ことについて

「十分に信用出来る」

とし、その結果、

「弥生と博則の口座における株式取引は全て被告人の取引と認めざるを得ず、結局、被告人は各口座における、同一銘柄の譲渡株数が年間二〇万株に、売買回数が五〇回に達しないよう意図的に分散させるために弥生、博則の口座を使用したものというほかない」

として、有罪を言い渡したものである。

二、原判決の右認定の誤りについて

1.被告人の経歴と株式に至った経緯及び同取引の資金等について

(1) 経歴

被告人は、吉本清太郎、君子の次男として出生、昭和二四年、大分県佐伯市の鶴城高校附属中学を卒業し、約二年間、尼崎市の伯母の下で自動車タイヤの修理工として働いた後、約五年間、大阪市天王寺区の浅田製作所に勤務し、旋盤工見習いをしていた。昭和三一年、父清太郎、兄清と共同で吉本製作所の屋号出水道器具部品の製造業を始め、今日に至っている。右吉本製作所の事業は、実質的には共同であるが、兄清の名義で所得の申告をし、被告人は従業員として給料を貰っていたが、最近は営業が悪くなっていたので、同六一年頃は、月給として約一〇万円貰っていた。

〈1〉 家族構成

被告人は、昭和三五年一一月、福岡弥生と結婚した。

同女は、同二九年三月、和歌山県の県立耐久高校を卒業すると同時に、大阪府泉大津市内の高田外科病院に事務員として就職し、被告人と結婚するまでの約六年間、同病院に住込んで生活していた。

同三六年一二月、被告人と弥生との間に長男博則が生まれた。

同人は、同六〇年三月静岡大学農学部を卒業し、NHK静岡放送局のアルバイトカメラマン助手、和歌山県那智勝浦町での農業実習生、スーパー「ローソン」でのアルバイトをしたりしていたが、同六二年四月から、大阪いずみ市民生活協同組合に就職し、現在に至っている。被告人の家族は、妻弥生、長男博則の三名である。

〈2〉 家族の生活状況

被告人一家は、質素、倹約を旨として生活している。

被告人は、酒、タバコは嗜まず、毎日仕事に従事し、帰宅後は囲碁や読書をすることが唯一の楽しみで、贅沢とは全く無縁の生活を送っている。従って、結婚以来、現在に至るまで背広は二着買ったのみであり、又、旅行を楽しむこともなかったため、飛行機に乗ったこともない。

日常生活の足は四〇年来、自転車である。

弥生も贅沢とは無縁で、その生活は質素、倹約の始末屋である。同女は、高校卒業後、高田外科病院に住込みで働くようになったが、月給等はほとんど使わず、貯蓄にあて、看護婦仲間と資産株などを買うまでになっていた。結婚後も寸暇を惜しんで内職、アルバイト等に精を出し、長男を出産した後、一週間程休んだだけである。長男博則も両親に似て、質素な生活を送っている。国立大学に入学したこともあって、在学中は被告人夫婦の仕送りも月七万円位の最低額で充分こと足りており、同人が大学を卒業してからは、一銭の仕送りもしていない。このように、三名は近所から指弾されることなく善良な市民生活を送っていた。

被告人は、結婚当初、父や兄の家族と共に吉本製作所の二階に居住していたが、同四〇年一二月二一日、現在の住所地である天王寺区細工谷二丁目八番一七号に土地、建物を買って移転し、同五三年に同所に鉄骨ブロック三階建の現住居に立替え、同五六年に隣地を購入している。

〈3〉 被告人一家の株取引

弥生は、高校卒業後、泉大津市内の高田外科病院の住込み事務員となり、給料、ボーナスの殆どを貯め、高田医師らが株取引をしていたのを見て自らも大阪ガスなどの資産株を買ったりして株に手を出していた。

昭和三六年、被告人と結婚した時には、弥生自身約五〇万円の持参金を持っていた。同三六年頃、弥生の勧めで、被告人が山一証券梅田支店に口座を開設し、初めて株取引を始めるに至った。

弥生も持参金やアルバイト、内職等で貯めた自己資金を株取引につぎ込むことを考え、昭和三八~九年頃、自己資金を使って被告人の口座で株を買い、株取引を始めた。同女は、結婚後もアルバイト、右株取引等で儲けた資金を知人から持ち込まれる手形割引に充てたりして、更に自己資金を増やし、これを株取引につぎ込んで相当の余裕資金を持つに至った(小畑はるえ、桝田タミ証言)。更に、同女は博則を出産した直後の頃から自己資金を博則に預金等で贈与し、これを使って博則に株式を買ってやり、これを順次増やしていったのである。

(2) 各人の所得

〈1〉 被告人の所得

ア.被告人は、兄吉本清とともに同兄宅裏側に設置された約五坪の「工場」において、昭和三〇年頃より本件による逮捕があった平成元年六月まで、施盤工として継続して働き、所得を得ていた。右において、実質は共同経営であったが、形式上は、清が事業主となり、被告人はその従業員であったから、被告人の定期的収入は毎月の給与所得であり、この他に時に臨時収入を「工場」資金から得ていた。「工場」の会計は母君子(昭和六三年四月死亡)の管理するところで、被告人は工場の収支を知らなかった。よって、その所得は事実上、被告人が現実に手にした毎月の給与と臨時収入の合計ということになる。

なお、被告人には、右収入と本件被告人分株式の売買益による収入以外の収入はなかった。

イ.被告人は、毎月の給与を家計費としてそのまま妻弥生に交付し(弥生はこの約三分の一を預金していた)、臨時収入は主として株式購入資金と不動産購入資金として使用していた。なお、昭和五三年頃には「工場」の受注量が減少し、利益もそれにつれて減少したから、同年以降は「工場」からの臨時収入は皆無の状況となった。

ウ.毎月給与の概略は、結婚時の昭和三五年頃は、金一万五、〇〇〇円か金一万八、〇〇〇円あり、同四五年頃は金七万円から八万円であり、同五五年から同六〇年頃は一五万円、同六一、二年頃は一〇万円であって(これに株式からの利益を加え、昭和六一年頃は弥生に月額二五万円を家計費として交付していた)、これは一般家庭における給与所得と比較し低いものであったが、零細家内工業による収入であったから相当なものであったし、反面、日常生活における支出も比較的少なかったから、生活に困るところはなかった。なお、長男博則の大学生時代の仕送りは、毎月七万円程度で、これと学費を右給料以外の株式利益から被告人が支出していた。

エ.被告人が株式購入に充てた「工場」からの臨時収入は、一回当たり二〇万円程度のものであり、その合計金は後記の通り多めに見積もっても五七〇万円超えなかった。

〈2〉 弥生の所得(供述により数字の差があるので、少ない方の金額により記載する)

ア.高田外科病院 五〇万円

弥生は、高田外科病院勤務時代である昭和二九年一一月から昭和三五年五月までにおいて金五〇万円を貯えた。同病院での弥生の勤務は、住込み事務職員として、住居費・食費・制服費は病院側負担であり、患者数は毎日二〇〇人と多く、全く外に遊びに行く時間がない状態であったので、物理的に買い物等をする余裕はなく、しかも弥生が本来働き者で、かつ始末屋であったこともあって、支出は殆どなかったから、弥生は収入のほぼ全額を貯えることが出来た。

この収入は、本来の勤務収入と心付けからなる。勤務収入は、勤務開始時の月給が約金六、〇〇〇円、退職時の月給が金一六、〇〇〇円であったから、平均的には月給は約一一、〇〇〇円であったということが出来る。そして、これに真冬の賞与平均六ケ月分が加算されたから、その平均年収は金一九八、〇〇〇円となる。これに毎月、約五〇〇円、年になおすと約六、〇〇〇円の心付け収入があった。よって、年間収入計は金二〇四、〇〇〇円となる。

以上を計算すると、病院勤務時代(五年六月間)の総収入は、計一、一二二、〇〇〇円となり、前記の通り、退職時に金五〇万円の貯蓄があったことは充分うなずけるのである。そして、また、弥生がこれらの収入より約五万円を株式購入資金に回したとしても、何ら不思議ではないのである。なお、退職金八万円の支給も受けている。

イ.弥生は、結婚(昭和三五年一一月)直後より現在まで、外勤と内職とを継続して行い、収入を得ていた。唯一の例外は長男博則出生(昭和三六年一二月)した時の一週間のみである。そして、弥生は、このように得た収入を消費することなく(家計費は被告人の出損するところであった)、全て貯蓄及び株式に回していたのである。

ウ.以上、結婚前、結婚後昭和六二年一二月頃までの間の所得を少なめに見積もって、計算すると、次の通りであり、その合計は金三、二四七万円となる。

弥生所得集計表

a.高田外科病院 昭二九・一一~同三五・五 五〇万円

b.水平らせん 四ケ月(昭三六・三~同三六・六)×一・五万円 六万円

c.内職(箱詰、まとめ、洋裁) 五三ケ月(昭三六・六~同四一)×一万円 五三万円

d.フジ電機内職 三六ケ月(昭四三~同四五)×二・五万円 九〇万円

e.医療事務パート(二軒) 一二ケ月×二万円 二四万円

f.熊野屋 一八ケ月(昭四六年、四七年頃)×三万円 五四万円

g.めぐみ堂 一〇ケ月(昭四八・二~同四八・一一)×五万円 五〇万円

h.森工機 九年(昭四八・二~同五七・一〇)×年一三〇万円 一、一七〇万円

同退職金 六七万円

同失業保険 七〇万円

i.高島屋(パート) 一ケ月(昭五七・一一頃)×六万円 六万円

(上田証言によれば四八、六〇〇円)

j.玉姫殿(パート) 三ケ月(昭五八・一~同五八・三)×五万円 一五万円

k.広栄商店 一七ケ月(昭五八・九~同六〇・二)×一二万円 二〇四万円

(原審では、弁護人は勤務開始時を昭和五九年九月としていたが、これは誤りで、昭和五八年が正しい)

同ボーナス 四ケ月分 四八万円

l.失業保険 昭六〇・三~同六-〇・一二 八〇万円

m.三幸社 三三ケ月(昭六〇・三~同六二・一二、その後も)×一二万円 三九六万円

同ボーナス 二ケ月×二回×一二万円×三年 一四四万円

(上田証言引用資料によれば、六〇年から六二年まで約六二二万円)

n.手形割引 一〇年(昭四九~同五九)×七二万円 七二〇万円

総合計 三、二四七万円

エ.右ウにおいて、森工機については月額給与は初任給は五万円、退職時に一二万円であるから平均月給八・五万円、賞与は年間三・五ケ月分位で年間収入計約一三〇万円となる。

手形割引は元金三〇〇万円、月利二%の一二ケ月とすると、年間収入は七二万円となる(年間七〇万円から一〇〇万円の収入があった、との同人証言もある)。

オ.この間、右所得合計の元本三、二四七万円については、当然昭和三六年から昭和六二年まで二六年間、資金増加にともない順次、利息が加算されていたのである。従って、仮にこれを全て預金として二六年間運用したとした場合、非常に荒い計算であるが、右三、二四七万円とほぼ同額が、少なくとも利息として増加したとみなければならない。元本は、年利率五%で、一〇年間の複利計算をすると、元本と同額の利息が付され、二倍になるからである。即ち、弥生は、その資産を全て預金で回していたとした場合、少なく見積もっても元本の二倍の六、四九四万円の資産を有することとしなければならないのである。

そして、昭和六二年一二月末現在の弥生が管理する預金額合計(この中には、当然昭和六三年返還を儲けた一、六五〇万円を含まない)は、金二、九一四万円(検四〇、第四丁)であるから、弥生は右との差額三、五八〇万円を預金以外に投資することが可能であった。

従って、弥生は本件株式原資約三〇〇万円を投資し得たのである。更に、三重県名張所在の山林購入資金(昭和五二年)約金一二〇万円を捻出し得たのであるし、昭和四一年の自宅購入資金(一四〇万円の内の二〇万円)、昭和五三年の自宅改築時資金(一、三〇〇万円か一、四〇〇万円の内の二七〇万円)、昭和五六年の自宅隣地購入資金(一、八〇〇万円の内の四〇〇万円、この他博則預金から四〇〇万円支出し、三名の持分登記をしている)も出し得たのであるし、さらには、昭和六一年福岡匠宛貸付金一、〇〇〇万円も出し得たのである。そして、弥生はこれらの資金を現に出損しているのである。

カ.なお、弥生の所得は、これらの諸所得と弥生分株式の売買益から成っている。

〈3〉 博則の所得

ア.長男博則の勤務(昭和五九年三月静岡大卒、昭和六〇年頃から勤務)による所得は、本件株式とは関係がないので記述しない。

イ.博則に対しては、弥生からの贈与による所得がある。この贈与は博則出生直後頃から始まっている(博則に対する被告人からの贈与は、結果としては存在しない)。

右弥生からの贈与は、贈与当時には博則がいまだ未成年であったから、法律的にこれが有効であるか疑問なしとはしないが、弥生の意識としては贈与をしたものとして取り扱っているし、博則が成人に達した時にこの贈与を追認していると見ることが出来る。

このような贈与は、一般の家庭ではしばしば行われているところである。従って、この贈与契約を第三者である国が効力を争いうるところではない。国としては贈与税課税の問題が生じるだけである。そして、被告人も右贈与があったことを当然のこととして、その後の行動、即ち、博則株式としての取扱をしているのである。

ウ.なお、博則の所得は、これらの諸所得と博則分株式の売買益から成っている。

(3) 株式の購入の原資

〈1〉 以上で得た各人の所得は、夫婦別産制(民法七六二条)や、個人財産制により、当然各人の財産を構成するのであり、この各人財産を原資としてこれを株式に投資した時は、その株式はその原資を出損した者の所有に帰属するのである。ついで、この株式を売却して利益を生じた時は、その売却代金(売買益を含む)も原資を出捐したその株式所有者に帰属するのは当然である。そして、このことは、信用取引についても同様であり、担保株式・担保資金を出した者に株式売買損益が帰属する。これらのことは、所得に関する実質課税主義(所得税第一二条)の意味するところである。

なお、被告人はと弟吉本英雄、吉本茂二人から、株取引の委託を受け、それが無償であったことでも判るように、弥生、博則の株式の取扱も無償で行っていた。よって、この点で被告人に所得が発生することはなかった。従って、この株式取扱について報酬はないから、株式所有者に売買益が全て帰属するのである。

〈2〉 このように、株式購入原資を誰が出したのかは極めて重要である。そこで、本件における各人の株式取得原資について検討を加えることとする。なお、各人の出損時期について若干の食い違いがあるが、一〇年ないし二〇年も前のことであるので、記憶違いがあることはやむをえない。

ア.被告人の原資額

被告人の出損した原資は、合計五七〇万円を超えない。しかもこの原資を出した時期は昭和五二年までである。

その内訳は、次の通りである(以下において詳細な数字は、被告人が元帳を精査して検討した結果の数字である)。

a.昭和三六年から昭和四一年一一月まで約九七万円

(六七万円と、弥生から昭和四〇年末に一時的に借入れ、後刻返済した三〇万円、後記イaに記載、の合計)

(山一/梅田武夫口座に入金)

b.昭和四一年一一月から昭和四九年二月頃まで約六六万円

(山一/梅田武夫口座に入金)

c.昭和四二年七月から昭和五二年二月まで約四〇四万円

(コスモ/本店武夫口座に入金)

以上合計 約五六七万円

イ.弥生の原資額

これの合計は金三〇四万円である(次のbとcの合計金)。その内訳は次の通りである。

a.結婚一年後の昭和三七年頃から昭和四〇年ころまで(第一次原資)

金五〇万円

この金額は、内金三〇万円を山一武夫口座内で現実の株式投資とし、残金二〇万円を一旦は株購入を依頼したが、その後これを取り止め、自宅購入資金の一部として出損したものである。この間、内金三〇万円につき、金一五万円の株式売買益が発生して四五万円となっている。なお、被告人は、右自宅購入に反対であり、弥生に言われてやむなく買うこととしたが、そうすると被告人は本来株資金として用意していた資金を家購入資金(一四〇万円から母借入三〇万円、弥生借入二〇万円を引いた九〇万円)として出さねばならず、結果として被告人の株取引資金が減る。そこで、これを減らさないために、弥生より三〇万円の株式を借りたのである。

この五〇万円の金員は、最終的に次のbの中に含まれているので、右原資合計額(三〇四万円)には含めない。

b.昭和四二年頃から昭和四五年頃まで(第二次原資)

金一五四万円

これは、前記aの原資(五〇万円)を一旦自宅購入資金(二〇万円)としたり、被告人に株式貸与(三〇万円)したりした金五〇万円がその後、利息や利益を加えて被告人から弥生に順次返還された約八〇万円と、弥生が右期間中に自ら出損した計約七四万円の合計である(これは〈ⅰ〉 大和福岡眸口座の九四万六、七三七円、-なお、このうち、同口座開設時の三〇万円は弥生本人の出損である。-〈ⅱ〉 コスモ武夫口座内弥生分の三二万六、六〇〇円、〈ⅲ〉 野村/上六弥生口座の二七万三、九〇七円、計一五四万七、二四四円である)。

c.昭和五八年、五九年頃(第三次原資)

金一五〇万円

これは、五〇万円(昭和五八年八月)と一〇〇万円(昭和五九年八月)に分けて弥生が出資したものの合計である。

この一〇〇万円については検NO.二〇のコスモ/本店の被告人の勘定元帳昭和五九年八月一四日欄に一〇〇万円が入金されており、これが弥生の三和銀行から右被告人の口座へ入金されたものである。上田俊弘査察官もこの一〇〇万円の入金を認めている(第一四回公判)。

右の事実経過は次の通りである。

Ⅰ 弥生は、その所有にかかる東亜ペイント一、〇〇〇株を昭和五五年四月一五日金三六万三、七八三円で、同ヤシカ二、〇〇〇株を同年四月三〇日金七五万八、八七六円で売却し、トヨタ車体四、〇〇〇株(同年六月二四日に一、〇〇〇株、同年六月二六日に二、〇〇〇株、同年九月一六日に一、〇〇〇株)を購入してこの株式名義を弥生とした(平成三年二月七日付上申添付別紙の内、弥11の頁の右日付欄)。

Ⅱ ついで弥生は、右トヨタ車体四、〇〇〇株を昭和五七年七月頃、武夫所有のコパル四、〇〇〇株と交換した。

Ⅲ 弥生は、右により取得したコパル四、〇〇〇株を同年七月四日金二五九万七、〇六六円で売却し、この売却代金でもって三菱石油五、〇〇〇株を金一七五万円で、東光電機八、〇〇〇株を金二三四万六、三六〇円で購入するころ、これと前記コパル株売却代金との差額金一四九万九、二九四円が不足することとなった。よって、この差額金である(約)一五〇万円を弥生が前記の通り五〇万円と一〇〇万円に分けて出したのである(なお、被告人が五〇万円を小遣いに充てたとの点は、毎月生活費及び夏のボーナスとして弥生に渡したのであり、被告人自身の日常的小遣いに充てたものではない)。

Ⅳ ところで、右購入時において、被告人は三菱石油五、〇〇〇株を信用取引として弥生の承諾を得て「つなぎ買い」をなし、東光電機八、〇〇〇株は現物で購入した。

即ち、弥生から受領した金銭中、右現物取引のための資金以外の部分を弥生からの一任取引的依頼により、他の株資金のために使用したのである。

Ⅴ なお、東光電気八、〇〇〇株は、昭和六二年一〇月五日、代金一、四一二万七、八二〇円で被告人が売却している。これは、武夫口座で右東光電気を買っているところから、弥生に売却代金を交付すると贈与税問題が生じることが懸念されたこと、及び一任的取引関係から一時的に被告人の株取引に用いたのである。

Ⅵ しかし、弥生と被告人との頭の中では、右の三菱石油五、〇〇〇株及び東光電気八、〇〇〇株は、弥生のものであるとの認識であったのであり、このため、昭和六二年一〇月頃、弥生から右東光電気株を売って新日鉄三万二、〇〇〇株を買ってくれという話が出るのであり、ついで昭和六三年には弥生より被告人に対して、右三菱石油五、〇〇〇株及び新日鉄三万二、〇〇〇株(及び他の株)を返してくれという話が出たのである。

Ⅶ なお、Ⅰを原資としてみた場合には、Ⅰの五〇万円、Ⅱの内の七四万円、Ⅲの一五〇万円の合計金二七四万円が弥生原資合計である。

Ⅷ 上田俊弘証言(第一四回公判)及びその引用資料によれば、弥生の可処分所得と資産の増加額がほぼ見合うから、弥生が株式原資として出せる金はない、とする。

しかしながら、まず第一に、弥生収入支出の計算は、昭和五四年から昭和六三年まで一〇年間についてのみであり、五三年以前の収支については、全く調査も資料作りも共になされていない。弥生の右五〇万円の第一次原審及び一五四万円の第二次原資は、昭和三七年から昭和四五年までに出されたものであるから、上田証人引用資料では全く収支状況は判断出来ないのである。

第二に右一五〇万円の第三次原資は、昭和五八年、五九年頃に出されたものであるが、これが、右一〇年間の調査期間中の収支から出されたものとは限らない。即ち、それ以前の貯蓄やその利息があるたらである。

第三に、この収支表には、かなりの推計数字が含まれているし、学資・仕送りは被告人から出捐しているのに、弥生出捐であるとする誤りをしていること等とか、この集計表では三〇〇万円程度の誤差がすぐ出るのである。よって、上田証言の信用性は極めて少ない。

ウ.博則の原資額

金一五〇万円

これは、弥生が博生出生直後より、同人のため作った預金口座に順次預金として贈与し、その預金額でもって博則株を購入したものと、弥生が自己所有の株式をそのまま博則に贈与した株式のその当時の価格の合計である。右贈与により、昭和五三年までにサンケイビル三、〇〇〇株、京福電鉄五、〇〇〇株、ヨータイ一四、〇〇〇株が博則名義株、即ち、博則固有の株式となっている。なお、右ヨータイ株一四、〇〇〇株は、弥生が購入したものであるが、以前弥生より博則に贈与したサンケイビル六、〇〇〇株(博則株券名義)とを交換したことにより、ヨータイを博則株式、サンケイビルを弥生株式としたものである。

右贈与時期は、昭和三七年から昭和五四年までの間である。

なお、博則は、株取引の具体的内容は知らないが、弥生からの贈与によって増加した自己の株があることを被告人及び弥生から聞いていた。そして、概括的ではあるが、自己の株のおおよその状況は判っていたのである。成人になり、就職するに至って、右のように自己の株式が被告人の手によって博則のため売買することを承諾していた。勿論、弥生から贈与により、預金がなされていることも是認していたのである。

〈3〉 弥生が右株取引の原資を出していたことは次の事実からみただけでも明らかである。

ア.昭和六三年二月、被告人が弥生に対して、新日鉄三万二、〇〇〇株、三菱石油五、〇〇〇株、サンケイビル五、〇〇〇株を返還し、かつ現金一、六五〇万円を返還していること。

右は、弥生の株式及び株資金の管理が被告人から弥生に移転しているものであり、後記の通り弥生株式の一部清算だからである。弥生の株式があったからこそ、弥生は自分の株を返してくれと言ったのである。これだけでも弥生株式があったことを証明しうるに十分である。

イ.昭和五〇年頃の被告人の手帳(弁護人請求番号一〇)において、「弥生二五万円出」「弥生の分」との表示があり、弥生株式の取引が行われていたこと。

ウ.小畑、桝田両証人が、昭和五五年頃までに弥生より、株式取引を勧められ、弥生自身が株取引をしていることを聞いていること。

尚、昭和五八年九月から同六〇年二月迄、弥生が勤務した広栄商店の同僚小野和子も当時、弥生自身が被告人とは別に、自ら株式取引をしていたことを知っている(この点は、控訴審で証人により明らかにする)。

エ.株式名義は、その株式の所有者を表すものであるところ、弥生名義、博則名義の株式が、古くから、しかもかなりの期間その名義で存在したこと。その例は次の通りである。

a.昭和四七年九月二九日、コスモ/本店弥生口座開設の原資の一部となったチッソ四、〇〇〇株は、弁護士法第二三条の二の紹介(弁七)により、昭和四四年九月一七日から弥生名義であって、この昭和四四年頃は未だ回収問題が生じていない時であって、被告人は弥生名義を借用する必要はなく、弥生のものであるからこそ、弥生名義にしたのであったし、昭和五九年一〇月一九日開設のコスモ/本店博則口座開設の原資となったヨータイ一万四、〇〇〇株は、昭和五三年一一月三〇日から博則名義であり、その後もその名義のままである。

b.東邦工機四万三、〇〇〇株は、昭和五三年弥生が取得し、弥生名義となり、内二万三、〇〇〇株は昭和五九年から六一年にかけ売却されたが、残株二万株は、コスモ/上六弥生口座にあり、弥生株式名義のままである(検二四)。

c.京福電鉄株七、〇〇〇株は、昭和四八年に五、〇〇〇株、昭和五四年に二、〇〇〇株を各取得し、弥生名義となったが、元年一月二三日、査察着手時も、弥生名義のままである(検三五)。

d.サンケイビル一万五、〇〇〇株は昭和四七年から五二年に取得し、弥生名義となったが、昭和六一年、六二年一部売却し、残株は五、〇〇〇(昭和六三年二月の一部清算の株式)となったが、これも弥生名義のままである。

e.秋木工業株式(一株額面五〇円)については、同社の財政悪化事情を察知した被告人は、コスモ武夫口座で、一株一六五円で売り抜けたのであるが、福岡眸口座にある同銘柄株式については、被告人の弥生に対する売却勧告にも拘らず、弥生がこれを承諾しなかったことから、倒産後に一株一九円で売らなければならなかったこと。

f.岡証人は、昭和六三年一二月、弥生に会った時「長年こつこつためたのを(株式として)博則にあげた」と聞いていること。

g.なお、〈ⅰ〉 被告人が、査察調査時に、弥生の原資があることを再三供述していること、〈ⅱ〉 平成元年一月二四日、被告人がやむなく税金を払うと査察官に述べた夜、弥生は「自分(弥生)の株はどうしてくれるのか」との強い抗議を被告人になしていること、〈ⅲ〉 それ以降も弥生自己の株式取引を認めて欲しい旨、再三査察官に述べていること、〈ⅳ〉 そして、被告人が述べるように「弥生がブツブツ言っていた」こと、からも弥生が株式原資を出していたことは明らかである(被告人が、弥生は「へそくり」を出していたとか、「わずかな金」を出していたと供述する部分があるが、何億円もの取引をしていた被告人にとっては、五〇万円とか一五〇万円は、この「へそくり」、「わずかな金」にあたるのである。検二七七でも被告人は、二〇〇万円を「少しの資金」であると表現している)。

h.更に、昭和五八年コパル株を売って、東光電気と三菱石油を買ってくれと弥生が言った時(その売買取引現物取引であるか信用取引であるか、或はその取引資金関係の入金の状況はともかく)、被告人は右各銘柄の株式売買のための行動をしていること。

i.被告人が日頃取り扱わない新日鉄株という大型株を弥生自らが買い注文をしていること。

j.以上の他、弥生が本件株取引に関与していたことが随所に表れていることからも、弥生原資があることが明らかとなる。

〈4〉 このように被告人と弥生が株式購入資金として投入した原資は、武夫が出したもの、計五七〇万円以内、弥生が出したものは弥生株の原資となった約三〇〇万円である。そして、右をみれば、被告人の出損額と弥生の出損はさして大きな開きがないことが判る。そして、これら合計八七〇万円が元手となり、株式取引を継続し、その利益を全く消費することなく、再度株式取引に投資した結果、雪だるま式に、昭和六一年頃には全体で一八億円という株式及び借入総額五億五、〇〇〇万円に膨れ上がったのである。そして、被告人は自己の株取引の利益から、昭和六三年を中心に多くの不動産を購入しており、その代金は約二億三、〇〇〇万円であるから、一家の全株式中、被告人株式の割合は相当減少している。

〈5〉 ところで、国税局による本件査察では、被告人の所得の内、昭和六〇年以前のもの、特に工場からの臨時収入や、その臨時収入からの株式購入原資については、全く調査をしていない。資金については単に、大阪証券金融株式会社からの借入を調査したくらいのものである。検面調書等ではわずか数カ所で少しの原資(検二六一号問二の丸栄約一〇万円、同二七五号第五項の一〇万円か二〇万円、同二七七号第二項の二〇〇万円、同二八二号第七項の二〇万円、同二八五号第一三問の三五万円、同九三号第五項の二〇万円、同第六項の一〇〇万円から二〇〇万円)が出てくるのみである。収支計算表は全く作成していない。

このことは、平成元年一月二三日の強制査察直後から起訴に至るまで、捜査側は終始、本件株式取引の原資は被告人以外からは出ていないという誤った前提に立ち、捜査を勧めたことを物語っている。

そして、被告人の原資を調査しないで、被告人が全て原資を出したものと誤った推定をしている(被告人の原資を調査していない以上、被告人が株式を有していたこともまた不明である)。

そして、この捜査では、例外的に弥生原資を調査し、それも、裏付け資料も全く取らないで、不十分な調査をし、よって弥生の所得を不確定なものとして、結局、本件株式取引では全て被告人の原資しか入っていないものとして起訴している。

〈6〉 右は、一家の主人は被告人であり、その家族全体の収入や財産は全て被告人のものであるはずだ、とする明治憲法下の家父長的思想に基づいていることは明らかであり、現憲法下の個人主義、男女平等主義の理念から大きくかけはなれているといわざるを得ない(検察官の、夫の給料は妻のそれより高いはずだとの固定観念にも、このことが現れている。第六回公判弥生証人調書)。実体的にみても、この家族の中では、武夫固有の所得と資産あり、弥生、博則固有の所得と資産があったことは明白なのに、右の誤りをしているのである。

〈7〉 検察官論告における論理も、弥生株式資金を出したことは疑わしいから三名義株式は、被告人のものである、とする誤りを犯している。

右は、夫婦の財産中、出損社が不明であることにより、帰属の疑わしい財産は夫に属するという論理であり、しかも一家の主人は夫であるとする前述の家父長的思想下の論理である。

本件では、被告人と弥生は共稼ぎの夫婦であり、それぞれ財産を有していた。家庭内では弥生は被告人と対等の行動をとっているのである。自己の物は自己の物と主張する間柄にあったのである。弥生には独自の財産が存在したのである。

以上の実情をみるとき、疑わしい財産は共有とするならともかく、これを夫に属するとの論理は全く成立たないのである。

〈8〉 さらに、検察官論告では、弥生の株式があったとしても、「弥生の株式は、昭和六〇年までには、被告人の株式に完全に埋没してしまい、全て、被告人の他の株式と共に被告人の計算の下に取引の対象にされていた、と言わざるを得ない」とする。

これも、一旦弥生の株式が存在してもその後、帰属の判らなくなった財産は、夫に帰属するという明治憲法的発想であって、誤りである。

確かに、証券会社への発注等株式管理は被告人が行っていたが、それによって被告人の「計算」で弥生株を動かせていたこととはならない。被告人は、弥生や博則の株式を両名の資産形成のため、「弥生や博則の財産を残しておいてやりたい」として、株取引の管理を無償で行っていたのであり(更に、弥生に株取引を相談することも、弥生の署名をもらうこともあった)、そのことのために昭和六三年二月、弥生が自分の株式を返してくれと言った時に、その一部を弥生に返還しているのである。この場合、帳簿上、被告人が弥生株や博則株を明確に区分することが出来なかったとしても、被告人と弥生の頭の中には、いずれの株式が弥生のもの、博則のものであるかは判っていたのであり、その結果、捜査時に「上申書」を出して、それぞれの株式や株取引を抽出しているのである(もっとも、この抽出は、捜査側の管理者帰属主義に基づき、弥生が関与した株式取引を抽出したのである)。そして、元年一月二四日、被告人が全部税金を支払うと述べた夜、弥生から自分(弥生)の株はどうしてくれるのかと強い抗議を受け、被告人は「弥生がブツブツ言っている」との心情を何回も吐露しているのである。全て被告人の「計算」でしていたとするなら、このような場面は全くないはずである。

従って、税務当局は、各人原資や各人の記憶によって三名各人の取引を区分して課税することを検討しなければならないのに、これを怠り、判らないから全て被告人の取引であるとして課税し、また、起訴している。全く実質課税の原則を無視したものであり、言語道断である。

2.原判決の認定の誤り

(1) 弥生、博則口座(コスモ証券/本店)の開設に当たり、各口座に入庫されて開始された弥生名義の「チッソ」株、「にっかつ」株及び博則名義の「大阪窯業耐火煉瓦」株について。

〈1〉 「右株式が弥生の資金で購入された、弥生所有の株式であると認める客観的証拠がない。また、弥生から博則へ贈与された客観的証拠もない」とした点について。

弥生は、結婚後二~三年してから、自己資金で株式取引を始めた。当初は、山一証券梅田支店及びコスモ証券本店の被告人名義の口座内で、株式を購入し、被告人の株式と混同しないようにするため、弥生の資金で買った株式の株券の名義は弥生名義にしていた(平成元年六月二九日付検面調書)。

〈2〉 コスモ証券本店で、弥生口座を開設するにあたり、既に、昭和四四年八月三〇日、同年九月三日にコスモ本店の被告人口座で買い付けておいたチッソ四、〇〇〇株と、同四二年七月一八日から同四三年六月一八日までに買い付けておいた「にっかつ」五、〇〇〇株(右チッソと同時期に弥生が購入した。富士電機二、〇〇〇株と交換したもの)をコスモ本店に開設した(昭和四七年九月二九日)弥生口座へ入庫し、以後、同口座での株式買い付け資金となって同口座が運用されるに至ったものである。

原判決は、このチッソ、にっかつ株が弥生の資金で購入されたとする客観的証拠はないとするが、一体、この場合の客観的証拠とはどんなものを指すのであろうか。原判決は、弥生がこれらの株式購入資金を自己名義の銀行預金口座から出金している事実などを裏付ける証拠等を考えているのではないかと思われるが、二〇数年も前の銀行預金の記録が残っている筈もない(控訴審で立証予定)。

弥生が不動産(伊勢の山)を買い、また、知人の手形割引をする位に余裕があり、株式購入の資金を持っていた事実があり、また、弥生が実弟福岡眸の名前で大和証券本店で口座を開き、野村証券上本町支店でも自らの口座を開いて自己の株式を所有していたことは、原判決も認めていたのであるから、弥生所有の株式が存在していたことは明白であり、また、家族内で各人が買った株式の株券名義は原資を出した各人名義になっているのが通常である。

かかる事情に照らせば、コスモ証券本店の弥生口座の原資となったチッソ株の名義が昭和四四年から同四七年までの長期間、吉本弥生の同一名義となっていることこそ、同株式が弥生の資金で購入された弥生の所有であることを裏付ける客観的証拠であり、これ以上の客観的証拠はないと言わざるを得ない。

尚、にっかつ株については、弥生が映画券を欲しがったため、被告人と交換したのであるが、同株が無記名株であったため、弥生の名義に変更していなかった。

〈3〉 また、原判決は「被告人は、弥生、博則名義の株券であっても、両名の承諾を得ることなく、その名義を自在に変更していたことが明らかであるから、株券の名義のみでその帰属を決定することは出来ない」と判示している。原判決は、被告人が一体、何時頃から両名の株券の名義を自在に変更していたというのか不明である。本件訴訟の全証拠の中に、被告人が両名の承諾を得ることなく、株券の名義を自在に変更していたとする証拠など全くない。被告人は昭和六二年以降、弥生や博則から株取引の具体的な判断と株式に関する預かり証の保管を任されたけれども、株券の名義の書き換えまでを任されたことは一度もなく、従って、株券の名義を自在に変更したこともない。

原判決は、昭和六二年以降、被告人が弥生、博則から株取引について、銘柄や値段の決定などを任された点をとらえ、これをそれ以前の取引についても勝手に類推して「株券の名義を自在に変更した」と都合の良いように誤った解釈をしている。更に、原判決は、博則口座に関し、その原資となった「大阪窯業耐火煉瓦」株について「弥生から博則に贈与した事実を認める客観的証拠は見当たらない」とするが、原判決は一体、親子の間で株式贈与する場合、どのようなことが客観的証拠と考えているのであろうか、書面による贈与契約でも締結することを考えているのであろうか(このような契約書の存在は却って工作したことを推定せしめるものと言うべきである)。それであれば、全く一般常識からかけ離れた判断と言わざるを得ない。親が自分の子供に贈与する場合は、通常、株券の名義を子供名義に変えるか、或は子供名義で株式を購入して保管してやっているのが通常であり、子供名義の株券があること自体が親から子への贈与を裏付ける唯一の客観的証拠であり、これ以上の証拠などあり得る筈がないのである。

以上の通り、原判決は、本件で争点となっている弥生、博則の名義の口座の開設にあたっての原資に関する判断について重大な誤りを犯している。

(2) 「被告人が三口座を一体として取引に使用していたこと。この点について三者間で計算関係を明確にした清算が行われていた証拠がないから、家族間の貸借とみることが出来ない」とした点について。

三口座間に資金の移動があったことは明らかであるが、この点については、被告人は天王寺税務署において、確認したところ、三口座間の資金の移動があっても一年以内に返済があれば、家族間の貸借と認められるとの指導に従って行っていたものであり、同居家族間では、一時的な資金の貸借は当たり前であって、口座間の移動という表面的な事実をとらえて三口座を一本とみるのは実態からかけ離れた形式的な判断である。

また、検NO.二七及び論告要旨添付の大口資金の移動(入金)表をみても、被告人が金融機関から借りた資金の殆どは被告人口座に入金になっているのであり、弥生が借りた資金は全額弥生口座に入金になっているから、大口資金の移動は三口座間には存在しないと言わなければならない。

また、原判決は「三者の間で明確な清算が行われていない」と判示するが、被告人が家族以外の第三者から株取引の委託を受けている場合には、その結果の損益を定期的に清算しなければならないのは当然である。

しかし、同居の親子間の清算は、離婚とか子の独立とかの場合にはあり得るが、日常定期的な清算は行われないのが通常で、例外的には何か重要なきっかけにより偶然清算が行われることがある。

本件では、昭和六三年二月頃に被告人と弥生が喧嘩をした結果、弥生が被告人に対し「預けている株券と弥生が出した自宅隣地購入資金を返して欲しい」と要求したことから、一部株式の清算が行われた。

ただ、被告人が弥生から借りて信用取引の担保としている株は直ちに返還出来なかったため、次のような返還がなされた。

〈1〉 現金一、六五〇万円

〈2〉 株式

ア.新日鉄 三二、〇〇〇株

(約一、二六四万円、昭和六三年二月時価、一株三九五円)

イ.三菱石油 五、〇〇〇株

(約三二二万円、昭和六三年二月時価、一株六四三円)

ウ.サンケイビル 五、〇〇〇株

(約七六〇万円、昭和六二年六月時価、一株一、五二〇円)

合計 二、三四八万円

(サンケイビルは記録上、昭和六三年二月時点での時価は不明であるので、昭和六二年時点で価格計算した。なお、昭和六三年一二月末現在の三銘柄価格計は二、三三八万円余である。検一三四)

〈3〉 右〈1〉の現金返還は、昭和六三年四月七日に、自宅隣地取得時の弥生、博則損金八〇〇万円をほぼ倍額にして、弥生預金口座(大和銀行上六弥生名義普通預金)に返還したものであり、弥生はこのうち金一、四〇〇万円であっも野村証券上六支店に新規口座(昭和四四年一一月同支店に開設した弥生口座とは異なる)を開設し、そこで昭和六三年九月に、

日産農林工業 五、〇〇〇株を約三一八万円で、

関西ペイント 五、〇〇〇株を約三一七万円で、

鬼怒川ゴム工業 一〇、〇〇〇株を約六二九万円で、

合計一、二六四万円

取得した。

右一、六五〇万円の原資は、コスモ/上六武夫口座の信用保証金から六五〇万円、コスモ/上六弥生口座の信用保証金から一、〇〇〇万円が出ている(検二七、一二丁)。右被告人資金(コスモ/上六武夫口座)からの出金六五〇万円は、被告人本人から弥生に対する隣地出損金の返金であるが、右弥生資金(コスモ/上六弥生口座)からの出金一、〇〇〇万円は、名目上は、隣地出損金の返還であるものの実質は、弥生所有株式資金からの(管理変更による)株式一部清算を意味するものである。

〈4〉 右〈2〉の株式返還は、被告人管理にかかる弥生株式を弥生の管理下に移し、弥生株式を一部清算したことを意味する。

右サンケイビル株は従前(昭和五〇年頃)、弥生が購入して被告人が現物株で管理していたので、昭和六三年にそのまま弥生に返還した。

ところで、弥生第三次原資の箇所で述べた通り、三菱石油株五、〇〇〇株については昭和五八年八月頃、弥生から被告人に購入依頼があり、新日鉄株について昭和六二年一〇月頃、弥生から東光電気八、〇〇〇株を売って新日鉄を買って欲しい旨被告人に購入依頼があったものの、右三菱石油の資金は武夫が一任取引(株券の名義変更は含まない)として、他の株式取引での運用のために使用したので、購入時には信用取引として「つなぎ買い」をなし、現物購入していなかったのであるし、右東光電気は購入依頼時に現物で買ったものの、その後、一任取引として他の株式資金のため売却していて、昭和六三年初めには三菱石油、新日鉄双方の株式現物は存在しなかった。そこで、弥生より昭和六三年初めに返還を求められたことにより、急遽、この二銘柄を現物株で購入して弥生に返還した。

なお、右の新日鉄株については、昭和六二年に博則口座で信用買いしていたが、昭和六三年二月品受けし、すぐにこれを売却するとともに、直ちに弥生口座においてこれを買入、弥生に返還している。このことは、株式を博則名義から直接弥生名義に変更すれば贈与税が課税されることを恐れたものであり、実質は、コスモ/上六弥生口座にあった弥生株式資金を新日鉄株(現物)でもって弥生に返還(管理を弥生本人に移転)したものに他ならない。

〈5〉 被告人と弥生の株式購入原資割合(前者五七〇万円、後者三〇〇万円)及び被告人による多くの不動産購入による被告人持株割合の減少、及びこれらと昭和六三年当時の(総株式一八億円から借入金五億五、〇〇〇万円控除した)家族全体純株式時価一二億五、〇〇〇万円(検二六三、問六)との比較を見れば、到底、右現金返還中の一、〇〇〇万円及び株式返還約二、三四八万円でもって弥生株式の清算が終わるものではない。このことは、被告人も自認しているところである。

〈6〉 右一部清算は、昭和六一年、六二年当時において弥生所有にかかる株式が現存していたことを物語るものである。

以上の通り、原判決は、資金の口座間移動を家族間の貸借である実態を全く無視し、形式的、表面的な見方に終始し、被告人と弥生との一部清算の事実を全く無視した重大な誤りを犯している。

(3) 原判決が三口座間の管理について「被告人は、弥生や博則の同意を得ずに三口座の取引を管理し、弥生の依頼があっても、それは被告人の意見決定を拘束するものではない」とする点について。

原判決は、一時的な現象のみをとらえて、全体的な判断をしている傾向にある。即ち、弥生や博則は家を空けることが多い反面、被告人は自宅で株を研究する時間が多かったこと、更に、弥生等が被告人の株に関する才能を認めて、具体的な株取引を被告人に任せることになったが、被告人が三口座の「管理処分権を排他的に行使していた」(原判決)とすることは出来ない。弥生が、被告人の反対を押し切って買い付けたケース(新日鉄)、また、弥生が被告人の忠告を無視して売り渋って損をしたケース(秋木工業)などがある。

また、「一般家庭では、奥様が株を買い、また、子供の預金で株を買うということは沢山あり、奥様が自宅にいて、子供や御主人の代理で口座を運用されるケースが度々ある」(コスモ証券岡証人)こと、また、証券協会から証券業協会員に宛た示達にも「名義人(弥生、博則)が委託注文を出した者(武夫)の配偶者及び二親等内の血族である場合は、本人名義(弥生、博則)の取引とみなす」としているのも、近時の株取引の現状を考えてのことである。

このような事実に照らすと、昭和六二年以降における被告人による弥生、博則口座の管理運営はいわゆる一任勘定取引的(判時一三五二号四頁誠備事件)なもので、被告人が弥生や博則に相談せず、その裁量で自由に弥生や博則の株取引をしても、その取引及びその損益は弥生等に帰属するものである。

原判決は、以上のような具体的事実について全く考慮せず、被告人が三口座を管理しているとの表面的事実のみをとらえて全体を評価するという重大な誤りを犯している。

(4) 弥生が株取引に投入した原資について、原判決が「弥生が株取引の資金として投入した金額を具体的に確定する証拠はない」「仮に弥生等が主張するように、三〇〇万円程度の資金を投入したとしても、それが株取引により売買益を増やし得たのは、被告人の知識経験によるから、その資金の持つ意味合いは重視出来ない」としながら「本件口座開設以前に弥生はその資金を出して福岡眸名義(大和/大阪)、弥生本人名義(野村/上本町)で口座を開設し、株取引をしていた事実は認められる」としている点について。

原判決の右判示には、明白な矛盾がある。

福岡眸口座は、昭和四二年二月一八日、弥生が現金三〇万円を入金して開始し、野村/上本町の弥生口座は、昭和四四年一一月一三日、三二、三〇〇円が入金され、開設され、チッソ株が買われている。原判決の認める通り、弥生が資金を投入した通りである。

この両口座での弥生の株式が、後に開設されたコスモ証券の弥生、博則口座へ移されているのである。

このように、弥生が株式取引に投入した資金があることを明確に認定しながら、この資金がその後の本件弥生、博則の各口座にどのような関係になっているか全く答えず、結論として「弥生の資金を具体的に確定する証拠がない」とか、「仮に弥生が三〇〇万円程度の資金を投入したとしても、それによる売買益は被告人の知識、経験によるから、その資金の持つ意味合いは重視出来ない」としているのは、理由不備というだけでなく、判決自体の大きな矛盾である。これらの弥生、博則に属していた株式は、途中で消えて無くなってしまったのであろうか。そんなことは全く考えられない。昭和六一年、六二年時点でも、これら弥生、博則株は当然存在したのである。また、右「意味合いは重視出来ない」との意味・論理は全く不可解という他ない。その後、弥生、博則株が被告人に属することになって始めて、三口座がすべて被告人の取引となるのであるが、これらの株式が途中から被告人に属するようになったことは全くないのである。後に後述するが、右福岡眸(大和/大阪)、弥生(野村/上本町)の各口座で売買取引が行われ、残った株式は、その後本件の弥生、博則口座へ全て入庫されている。

(5) 被告人の供述の信用性について、原判決は「被告人の供述は変転しているが、査察官に対しては、三口座に弥生の株式が一部混入しているものの、口座間移動等により、被告人自身でさえ、弥生の取引であると特定して認識できるものがなく、そのため、被告人が三口座の取引と認めざるを得なかったことを率直に供述したもの」として、被告人が査察着手の翌日、一時的になした供述を信用し得ると判示したが、一連の被告人の供述には、弥生が資金を出した株式があり、三口座の取引全てが完全に被告人自身の取引ではないという事実が一貫して滲み出て流れていることが読み取れる。査察官がこの事実を強引に押し込めようとして取り調べていることが各被告人の供述の変転の中にあらわれている。従って、被告人は検察庁で逮捕、勾留されている間も一貫して三口座はそれぞれ名義人の取引であるとの主張を維持しているのである。

原判決も明確に認めている通り、福岡眸口座(大和/大阪)、弥生名義口座(野村/上本町)の各口座の取引は、弥生の投入した資金による取引である、という明白な客観的事実がある。これが本件コスモ証券の弥生口座、博則口座への基礎の一つとなっている限り、本件三口座を全て被告人の口座であるとすることは、右客観的事実に反することであるため、査察官の厳しい取り調べに対しても被告人は、三口座は全て自分のものであるとは明言出来なかったのである。

(6) 弥生名義(野村/上本町)、福岡眸(大和/大阪)名義の口座での取引について。捜査段階においては、右二口座の取引も全て被告人のものであるとして基礎されたが、原判決では、二口座とも弥生が資金を投入して開設したと認定するに至っているところ、右二口座の取引は、全て弥生の資金で行われ、同口座での売買がなされており、その後同口座に残った株式は全て本件のコスモ証券の弥生、博則口座へ入庫されている。

〈1〉 野村証券/上本町(昭四四・一一開設)の弥生口座

ア.昭和四四年一一月一三日、弥生は同口座を開設し、同口座でチッソ一、〇〇〇株を買い付け、その代金三二、三〇〇円を入金した。

同口座は、昭和四六年二月二七日、閉鎖されているが、弥生はこの間、同口座でチッソ五、〇〇〇株、丸金醤油三、〇〇〇株、近畿車両一、〇〇〇株を買い付けている。弥生は、右三銘柄の株式購入資金として、手持の現金を投入したほか、不足分は、山一証券/武夫口座及びコスモ証券/武夫口座内で既に買って所持していたダイエイ二、〇〇〇株と東洋繊維五、〇〇〇株(いずれも株券名義は弥生)を野村証券/上本町の弥生口座で売却した売却代金を右三銘柄の買付金に充当した(検察官請求NO.二一 野村/上本町勘定元帳)。

弥生は、被告人の勧めもあって被告人が主として取引しているコスモ証券に弥生名義の口座を開設し、分散している弥生株をここへ集中することとした。そこで、昭和四六年二月二日、弥生は野村証券/上本町の弥生口座で買い付けて残っていた前記三銘柄の株式を全部出庫して、自宅に保管していた。

イ.昭和四七年九月二七日、弥生は、コスモ証券/本店に弥生名義の口座を開設した。そして、野村証券/上本町の口座から出庫して保管していた右三銘柄株の株式を順次本件コスモ証券/本店で開設した弥生の口座に入庫して売却し、同口座での取引資金等に充当していった。

即ち、近畿車両一、〇〇〇株は昭和四八年一月五日に入庫して売却し、丸金醤油三、〇〇〇株は昭和四七年一二月一五日、入庫して売却した。

弥生は、その後、吉本茂からチッソ一、〇〇〇株を現物で買ったため、弥生の手持チッソ株は合計六、〇〇〇株となっていた。

弥生は、右チッソ六、〇〇〇株を昭和四八年一二月二〇日二、〇〇〇株、同四八年一二月二二日四、〇〇〇株を本件コスモ証券/本店の弥生口座へ入庫して売却している(検察官請求NO.二一 コスモ証券/本店勘定元帳、弥生上申書〔二・二一〕)。

〈2〉 大和証券/大阪の福岡眸口座(昭四二・二・一八開設)

ア.昭和四二年二月一八日、弥生が手持現金三〇万円を入金して開設した弥生の口座である。

同口座で株取引資金は、全て弥生が入金した現金でまかなわれている。唯一の例外は、昭和四二年三月九日に売り付けられているダイトー三〇〇株である。

この株は、同口座開設以前、山一/武夫口座内で弥生が買ったものである。福岡眸口座での資金の一部に充てるため、同口座で売却したものである。

イ.福岡眸口座は、昭和四二年二月一八日開設され、同五七年一一月二七日、秋木工業一六、〇〇〇株が売却され、同年一二月六日現金四〇三、三四二円が引き出され、口座残高零となり、同五八年一一月一日口座は抹消された。

この間、同口座は弥生の資金で株取引が行われ、決済されてきたが、現物株として出庫されたのは、忠勇、極洋鯨、京福電鉄、サンケイビルの四銘柄のみである。検NO.二一の勘定元帳中、福岡眸口座の末尾添付の入出庫状況一覧表の銘柄の内、出庫して残高零になっているもののみが、同口座からの現物株の出庫であり、また、この表には極洋鯨が洩れている。

福岡眸口座は、他人名義であるため、同口座の株を減らして、弥生口座へ移す必要から、現物株の一部を出庫したものである。

a.忠勇

買 昭四六・一二・二一 一、〇〇〇

同四七・一・二八 一、〇〇〇

同 五・一九 一、〇〇〇

同 八・二三 一、〇〇〇

同四八・九・六 一、〇〇〇

合計 五、〇〇〇

売 昭四七・九・一 一、〇〇〇

同 八・三一 三、〇〇〇

合計 四、〇〇〇

残一、〇〇〇は昭和五一年五月二一日出庫し、コスモ/弥生(四七・九・二九開設)へ入庫し、昭和五一年六月一〇日から同五三年一月一二日までの間に売却(検NO.二一、平三・二・七上申書弥九頁)した。

b.極洋鯨

買 昭四二・三・七 一、〇〇〇

同 五・一八 一、〇〇〇

同 五・二二 一、〇〇〇

同 五・二三 一、〇〇〇

同 六・六 一、〇〇〇

同 六・六 一、〇〇〇

同四五・一一・二五 一、〇〇〇

合計 七、〇〇〇

売 昭四五・七・二三 一、〇〇〇

二、〇〇〇

二、〇〇〇

同 一二・二八 一、〇〇〇

合計 六、〇〇〇

残一、〇〇〇は同口座から出庫し、昭和四六年七月三〇日、コスモ/武夫口座で売却(検NO.二一、平三・二・七上申書弥九頁)した。

c.京福電鉄

買 昭四六・一二・三 一、〇〇〇

同 ・一二・一一 一、〇〇〇

同四七 五・一三 一、〇〇〇

一、〇〇〇

同 五・一六 一、〇〇〇

同四八・三・二二 一、〇〇〇

合計 六、〇〇〇

武夫から、同人の信用取引の担保として、京福電鉄六、〇〇〇株を貸して欲しいと頼まれたため、弥生が昭和五一年五月二〇日、右六、〇〇〇株を福岡眸口座から出庫し、武夫に貸付けた。武夫は、右六、〇〇〇株をコスモ/武夫の代用預かり口座へ入れて(五一・五・二〇 五、〇〇〇株、五三・四・一七 一、〇〇〇株)信用取引を行った(検NO.二一平三・二・七上申書弥九頁、検NO.二四の四頁、五頁)。

武夫に貸付けられた六、〇〇〇株は、その後、弥生に三、〇〇〇株返還され、残三、〇〇〇株は弥生から博則への贈与として博則に交付された。

この三、〇〇〇株、三、〇〇〇株は、現在、現物として弥生、博則が保管している。

d.サンケイビル

買 昭四七・八・二三 一、〇〇〇

同 八・三一 一、〇〇〇

同 九・六 一、〇〇〇

同 一一・二一 二、〇〇〇

同 一二・一六 一、〇〇〇

同四八・一・二六 一、〇〇〇

同 九・五 一、〇〇〇

同五一・二・一三 五、〇〇〇

合計 一三、〇〇〇

被告人が信用取引の担保として、弥生に右サンケイビル一三、〇〇〇株を貸して欲しいと依頼したため、弥生は昭和五四年一二月六日、右サンケイビル全て出庫し(検NO.二一、平三・二・七上申書弥九頁)、コスモ/武夫口座の代用預かり口座へ入庫して貸付た。

その後、被告人は弥生の指示によって、右サンケイビル一三、〇〇〇株の内、二、〇〇〇株を弥生へ(検NO.二〇、弥生勘定元帳)、三、〇〇〇株を博則へ返却した。弥生は、昭和六一年一〇月一七日から同六二年六月四日までの間に、その口座でサンケイビル一七、〇〇〇株を売っており、被告人から返却を受けた二、〇〇〇株は右一七、〇〇〇株の内に含まれている。また、博則は昭和六一年四月一八日から同六一年六月二三日での間にサンケイビル七、〇〇〇株を売っているが、右三、〇〇〇株はその内に含まれている。

残八、〇〇〇株については、弥生は被告人の持っていた京福電鉄四、〇〇〇株、ヨータイ二、〇〇〇株と交換した。弥生は京福電鉄四、〇〇〇株の内、二、〇〇〇株を博則に贈与し、二、〇〇〇株を自己の口座へ入庫し、現在残っている。

被告人は、サンケイビルの他に前記京福電鉄六、〇〇〇株も弥生から借り、後日弥生に三、〇〇〇株、博則に三、〇〇〇株返しているので、結局、被告人は博則に五、〇〇〇株を返却している(検NO.三四、六頁)。

弥生については、右サンケイビルを交換して返却した二、〇〇〇株と、また、山一/武夫内で弥生が買っていた二、〇〇〇株の合計七、〇〇〇株を弥生口座へ返している(検NO.三四、四頁)。

右ヨータイ二、〇〇〇株も弥生口座へ入庫した(検三四)。

〈3〉 以上の通り、原判決が「福岡眸口座は、弥生が被告人に相談することなく開設した口座である。野村/上本町の弥生口座も弥生が開設したもの」とし、「弥生が早くから株取引に関心を持ち、被告人に依頼して山一/梅田で株式を購入したり、福岡眸口座や、野村/上本町の弥生口座である程度の株式取引をしていたことは否定出来ない」と判示しているところであるが、原判決も認めている野村/上本町の弥生口座及び福岡眸口座の弥生の株式は、全て本件で問題となっているコスモ/本店弥生口座へ入庫しているのである。

(7) 弥生、博則が被告人の信用取引の担保に充てたりするため、被告人に貸してコスモ/武夫に入庫された株式は、結局、最終的にはコスモ/弥生、コスモ/博則に戻されている。

〈1〉 コスモ/弥生からコスモ/武夫に移された株式は次の通りである。

ア.京福電鉄 三、〇〇〇株

昭和五〇年六月三〇日、コスモ/弥生から出庫して、コスモ/武夫へ入庫され(検NO.二六、三枚目)、同五〇年一一月二二日から同五〇年一二月二二日までの間に売却され、弥生の日本カーボン(コスモ/武夫内での弥生取引)の損金に充当されている(検NO.二一)。

イ.阪神百貨店 一、〇〇〇株

昭和五一年三月九日、コスモ/弥生から出庫され、コスモ/武夫に入庫され、昭和五三年一一月一七日、売却され、この資金で被告人の兄吉本清が忠勇一、〇〇〇株を買い付けた。これは昭和五三年三月二二日、コスモ/弥生に入庫して売却(検NO.二一)している。

ウ.大トー 一〇、〇〇〇株

昭和五一年一月一二日、四、〇〇〇株、同五一年五月二〇日、六、〇〇〇株の計一〇、〇〇〇株がコスモ/弥生から出庫し、コスモ/武夫へ入庫(検二六、三枚目、五枚目)している。

昭和五三年二月二三日、六、〇〇〇株、同五三年二月二八日、四、〇〇〇株を売却した。右六、〇〇〇株の売却資金で昭和五三年六月一九日から同年六月二一日の間に山一/武夫内でヨータイ一四、〇〇〇株を買った(検NO.二〇、山一/武夫勘定元帳)。四、〇〇〇株売却資金は自宅の雑費に充当した。

弥生は、昭和五九年一〇月一九日、右ヨータイ一四、〇〇〇株をコスモ/博則に入庫して博則口座を開設した(検NO.二九)。

エ.兼松羊毛 三、〇〇〇株

昭和五一年一月一二日、コスモ/弥生から出庫し、コスモ/武夫へ入庫(検NO.二六、三枚目)している。

その後、右株式を売却し、ヤシカ二、〇〇〇株、トヨタ車体四、〇〇〇株、コパル四、〇〇〇株、東光電気八、〇〇〇株、三菱石油五、〇〇〇株、新日鉄三二、〇〇〇株へと順次、買い換えられ、最終的には新日鉄三二、〇〇〇株と三菱石油五、〇〇〇株となって、野村/上六弥生口座(昭六三・九開設)へ昭和六三年一一月一六日入庫され(検NO.二〇)、現在、残っている。

オ.東亜ペイント 一、〇〇〇株

昭和五一年一月一二日、コスモ/弥生から出庫し、コスモ/武夫へ入庫し(検NO.二六、四枚目)、その後、売却され、その資金がエで説明したトヨタ車体四、〇〇〇株の買い付け資金の一部となっている。

カ.日本橋梁 六、〇〇〇株

昭和五一年一月一二日か同五一年三月九日までの間にコスモ/弥生から出庫し、コスモ/武夫へ入庫(検NO.二六、三枚目、四枚目-但し、同表には三、〇〇〇株が洩れている)。

昭和五二年三月二九日に売却され、サンケイビル二、〇〇〇株とヨータイ一、〇〇〇株に換わっている。その後、コスモ/弥生に入庫され、現在、サンケイビル五、〇〇〇株として残っており、ヨータイ一、〇〇〇株は昭和五九年一〇月二五、二六日にわたって、同口座で売却されている(検NO.二〇、弥生勘定元帳)。

キ.サンケイビル 一一、〇〇〇株

昭和五〇年七月九日から同五四年一二月一日までの間はコスモ/弥生から出庫し、コスモ/武夫へ入庫されている(検NO.二六、三枚目、四枚目、五枚目)がその後、コスモ/弥生へ返却され、同座で買い付けられていたサンケイビル株と併せて、

昭六一・一〇・一七 一、〇〇〇株

同 一二・一八 二、〇〇〇株

同六二・一・八 七、〇〇〇株

同 六・四 二、〇〇〇株

一、〇〇〇株

四、〇〇〇株

に売却されている(検NO.二一、弥生勘定元帳)。

ク.大阪窯業耐火煉瓦 一〇、〇〇〇株

昭和五四年一二月一日コスモ/弥生から出庫し、コスモ/武夫へ入庫され、その後、コスモ/弥生に返却され、同口座で昭和五九年一〇月二五日、一一、〇〇〇株の売却がなされているが、その内の一万株である(検NO.二一、弥生勘定元帳、検NO.三四、三頁)。

以上の通り、コスモ/弥生や大和/福岡眸で買い付けられた弥生の株も、被告人に貸し付けられた株も、最終的には弥生や博則に返却されており、これはコスモ/弥生、コスモ/博則の口座での株取引は、その名義人に帰属するものであることを裏付ける結果となっている。

第三 結論

結局、原判決は起訴対象時期のコスモ/武夫、コスモ/弥生、コスモ/博則の三口座と、三口座間の資金移動及び被告人が三口座を管理していたという表面的事実のみを重視して、三口座の取引は全て被告人に帰属するとして有罪としたもので、被告人や弁護人が強く主張している本件の弥生口座、博則口座が開設されるに至った経緯、その原資、特にこれに投入された弥生の資金等、実質的な点については全く答えていない。

特に「福岡眸口座、野村証券/上本町の弥生口座は弥生が資金を投入して開設し、株取引をした」と判示しておきながら、この両口座での弥生が取引した株一体どうなったのか、「三〇数年間、汗水たらして貯めた金で買った私の株式はどこへいったの。私の株式は何一つ認められない。そんな裁判ってあり得るの」という弥生の切実な主張に何も答えていない。

以上の通り、弥生が資金を投入して株式取引した事実のあることを認めながら、本件三口座は全て被告人に帰属するとした原判決は、大きな矛盾があるとともに事実誤認があり、また、理由不備、審理不尽があり、これが判決に影響を及ぼすことが明らかであるので、控訴審では、十分に審理をされるよう、控訴に及んだ次第である。

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